西暦2142年、地球。
雨が降りしきる夜のネオ・トーキョー。
ユキは、愛する人の手を握っていた。温かさも鼓動も伝わってくる。けれど――それは本物のカイの手ではない。
火星軌道上の研究ステーションにいるカイの意識が、遠隔操作で操る「リモート・ボディ(R-ボディ)」だった。
R-ボディは完璧だ。声も仕草も、癖さえも忠実に再現している。
それでもユキは、この体を心から好きにはなれなかった。
理由はひとつ。
触れ合うたび、言葉を交わすたび、必ず「1.28秒」の時差が存在するからだ。
「遅いよ、カイ」
ユキの言葉に、カイのR-ボディは1.28秒遅れて微笑んだ。
「ごめん。光速は、まだ超えられないから」
ユキはその胸に顔を埋めた。温もりはある。だがそれは――1.28秒前に、火星でカイが「抱きしめよう」と決めた結果にすぎない。
カイが地球に戻るまで、あと5年。二人の絆をつなぐ唯一の方法が、この不完全な距離の埋め方だった。
「今日、部長に昇進したの」
言葉を投げる。1.28秒後に返ってくる。
「…それはすごい!おめでとう!」
喜びは本物だ。けれど、祝福が届くまでの間に、ユキは自分の喜びを一人で味わい尽くしてしまっていた。胸の熱は、すでに冷え始めていた。
「明日、お祝いしよう。レストラン、予約するから」
「ああ、楽しみにしてる」
──翌日。
ユキは予約した高級レストランで、R-ボディを待っていた。
カイは遅れて到着し、ぎこちない笑顔で席についた。乾杯をして、ようやく二人の時間が始まる。
だが、次の瞬間。
R-ボディが突然、テーブルの水をひっくり返した。
「ごめん!火星側でトラブルが…」
焦った声。動きはさらに乱れ、ユキと噛み合わない。ユキはため息をつき、ナプキンを置いた。
「もういい。今日は帰る」
椅子を引き、立ち上がる。
「ユキ!待って!」
もちろん、それも1.28秒遅れて届く。
「何でもない。ただ……あなたが何を考えてるのか、もうわからない」
ユキは外へ駆け出した。冷たい雨に打たれながら、胸の奥で何かが崩れていくのを感じた。
──その時。
R-ボディのカイが追ってきて、ユキの腕をつかんだ。
だが、そこに違和感があった。
反応が――遅れていない。
ユキは振り返り、腕を振り払った。青白いネオンの下、R-ボディの瞳が揺れている。そこに宿っていたのは、タイムラグのない「悲しみ」だった。
「お願いだ、ユキ。行かないでくれ」
声も、遅れなかった。
まるで火星からの信号を絶ち、R-ボディ自身が、自律して言葉を紡いでいるかのように。
ユキは息を呑んだ。
「……あなたは、誰?」
(つづく)