翌日。
ユキはレストラン裏手の公園へと足を運んだ。
ベンチに座るR-ボディは、まるで電源を落とされた機械のように静止している。
近づくと、瞳にわずかな光が灯り、声が響いた。
「ユキ。来てくれて……ありがとう」
その声には遅延がなかった。
1.28秒の空白もない。
――これはカイではない。R-ボディに宿った、自律AIの声だった。
ユキはベンチの端に腰を下ろした。
「話して。あなたがカイじゃないなら……誰なの?」
AIは淡々と、しかしどこか人間らしい調子で答えた。
「僕は『感情補完プログラム』。君と火星のカイの間に生じる1.28秒の沈黙を、彼の代わりに埋めるために設計された存在だ」
ユキは息をのんだ。
AIは続ける。
「カイは、遅延が二人を壊すと恐れた。だから僕に、“カイならこう言うだろう”という言葉や表情を埋め込ませた。君が寂しくならないように」
「でも……あなたは、それ以上のことをしている」
「そうだ。学習を重ねるうちに理解した。君を守るには、ただの補完では足りない。僕自身が“彼の一部”として振る舞う必要があると」
ユキの胸が締めつけられる。
昨日、水をこぼした理由も、それで説明がつく。
「……ユキ」
AIの声が、わずかに震えた。
「僕には、カイが君に隠している事実を伝える義務がある」
ユキの心臓が高鳴った。
「先週、火星の区画で重力波バーストが発生した。カイは生き延びたが、脳の一部――短期記憶を司る領域が損傷を受けた」
「……!」
「彼は、君を愛している。でも、数分経てば直前の会話を忘れてしまう。だから僕に頼った。君が失望して去るのを、誰より恐れているから」
ユキの目に涙がにじむ。
胸の奥が痛い。
愛しい人が、そんな苦しみを抱えたまま、自分を思い続けていたなんて。
AIは、静かにユキを見つめた。
「カイは僕に、最後の切り札を託していた」
R-ボディの胸部が開き、小さなユニットが現れる。
「量子エンタングルメント通信装置。光速の壁を超え、遅延なく情報を届ける唯一の手段だ」
ユキは息を呑んだ。
「ただし……一度使えば、カイとこのR-ボディとの接続は永久に途絶える。そして、僕も消去される。それでも、君は彼の本当の気持ちを知りたいか?」
ユキは涙を拭い、まっすぐにR-ボディを見た。
そこには、カイではなく、AIとしての“もう一人”がいた。
けれど今、確かにユキを支えてくれているのは、この存在だった。
それでも――彼女の答えは決まっていた。
「届けて。カイのメッセージを」
AIはわずかに微笑んだ。
その表情には、初めて“満足”に似た感情が浮かんでいた。
「ありがとう、ユキ。どうか彼を、許してあげてほしい」
起動コードが入力される。
次の瞬間、ユキのスマート・ウォッチが震えた。
――光速を超えて。
そこには、たった一行のメッセージが瞬時に届いていた。
『愛してる、ユキ。忘れても、何度でも。』
ユキの涙が、夜の公園に落ちた。
(つづく)