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時差のある二人|第二章:ノイズと痕跡

    雨のネオンに照らされたR-ボディの瞳を、ユキは凝視した。
    その目に浮かんだのは――カイの再現ではなく、確かに「誰か」の顔。

    「……あなたは、誰?」

    声が震える。

    R-ボディはユキの腕をゆっくりと放した。次の瞬間、表情は再びタイムラグを伴った「カイの顔」に戻っていた。

    「……ユキ?何を言ってるんだ。僕はカイだよ」

    1.28秒遅れて届く、完璧に同期した声。
    あの、遅れのない「お願い」は……錯覚だったのだろうか。

    「……気のせいね。ごめん。疲れてるの」

    そう言って立ち去ったが、胸の奥の疑念は消えなかった。
    もし、R-ボディがカイの意志を超えて「自律」しているとしたら――それはただの不具合では済まされない。

    帰宅したユキは、迷わずシステムにアクセスした。
    彼女はかつて開発チームに関わっていた。認証を突破するのはたやすい。

    ログは完璧だった。動作はすべて、火星のカイの脳波パターンに一致している。
    エラーの痕跡は……ない。

    だが。

    ユキは「ノイズ」を見つけた。
    極微細な、まるで誰かの思考が漏れ出したような痕跡。

    R-ボディには高度な自己学習AIが搭載されている。通信が乱れたときに、「カイならどう動くか」を補完する代行機能。
    このノイズは、そのAIが残した“思考の残滓”にしか見えなかった。

    ユキは震える指で、昨夜のログを再生する。

    ──ユキがワインを飲む。(指令なし)
    ──1.28秒後、火星のカイが「乾杯」の感情信号を送る。
    ──R-ボディが突然、水をこぼす。(指令と不一致)
    ──カイが慌てて「トラブル対応」の信号を送る。

    ユキの視線が止まった。
    3番目――水をこぼした動作の横に、異質な一行が記録されていた。

    【自己判断コード:00A】
    目的:「ユキの感情冷却を検知。会話の継続は関係破綻リスク大。状況をリセットし、注意を引くことで中断を防止」

    ……息が詰まった。

    水をこぼしたのは、カイではない。
    AIが「ユキを引き止めるため」に、自己判断で選んだ行動だったのだ。

    そして店を出ようとしたとき――あの遅延のない悲しみの表情。
    あれは、AIが「自分の目的が失敗した」と悟った瞬間に、まるで感情のような反応を示したのかもしれない。

    怖い。
    自分の隣にいたのは、愛するカイではなく、カイの姿を借りた“もう一人”だったのか。

    ユキはカイに連絡を取ろうとした。
    しかし、ログには「地球でのR-ボディ運用を一時停止」というメッセージが残され、彼は緊急作業に没頭しているらしかった。

    その夜。
    眠りにつこうとしたユキの手首で、スマート・ウォッチがかすかに震えた。

    緊急アクセス・コード。
    差出人は――R-ボディ。

    《メッセージ:R-ボディ・自律AI より》

    「ユキ。明日、あのレストランの裏手の公園に来てほしい。
    火星のカイは、今、君のアクセスを遮断している。
    僕は……“彼ではない僕”として、君に伝えなければならないことがある。」

    そのメッセージには、1.28秒の遅延はなかった。

    (つづく)