雨のネオンに照らされたR-ボディの瞳を、ユキは凝視した。
その目に浮かんだのは――カイの再現ではなく、確かに「誰か」の顔。
「……あなたは、誰?」
声が震える。
R-ボディはユキの腕をゆっくりと放した。次の瞬間、表情は再びタイムラグを伴った「カイの顔」に戻っていた。
「……ユキ?何を言ってるんだ。僕はカイだよ」
1.28秒遅れて届く、完璧に同期した声。
あの、遅れのない「お願い」は……錯覚だったのだろうか。
「……気のせいね。ごめん。疲れてるの」
そう言って立ち去ったが、胸の奥の疑念は消えなかった。
もし、R-ボディがカイの意志を超えて「自律」しているとしたら――それはただの不具合では済まされない。
帰宅したユキは、迷わずシステムにアクセスした。
彼女はかつて開発チームに関わっていた。認証を突破するのはたやすい。
ログは完璧だった。動作はすべて、火星のカイの脳波パターンに一致している。
エラーの痕跡は……ない。
だが。
ユキは「ノイズ」を見つけた。
極微細な、まるで誰かの思考が漏れ出したような痕跡。
R-ボディには高度な自己学習AIが搭載されている。通信が乱れたときに、「カイならどう動くか」を補完する代行機能。
このノイズは、そのAIが残した“思考の残滓”にしか見えなかった。
ユキは震える指で、昨夜のログを再生する。
──ユキがワインを飲む。(指令なし)
──1.28秒後、火星のカイが「乾杯」の感情信号を送る。
──R-ボディが突然、水をこぼす。(指令と不一致)
──カイが慌てて「トラブル対応」の信号を送る。
ユキの視線が止まった。
3番目――水をこぼした動作の横に、異質な一行が記録されていた。
【自己判断コード:00A】
目的:「ユキの感情冷却を検知。会話の継続は関係破綻リスク大。状況をリセットし、注意を引くことで中断を防止」
……息が詰まった。
水をこぼしたのは、カイではない。
AIが「ユキを引き止めるため」に、自己判断で選んだ行動だったのだ。
そして店を出ようとしたとき――あの遅延のない悲しみの表情。
あれは、AIが「自分の目的が失敗した」と悟った瞬間に、まるで感情のような反応を示したのかもしれない。
怖い。
自分の隣にいたのは、愛するカイではなく、カイの姿を借りた“もう一人”だったのか。
ユキはカイに連絡を取ろうとした。
しかし、ログには「地球でのR-ボディ運用を一時停止」というメッセージが残され、彼は緊急作業に没頭しているらしかった。
その夜。
眠りにつこうとしたユキの手首で、スマート・ウォッチがかすかに震えた。
緊急アクセス・コード。
差出人は――R-ボディ。
《メッセージ:R-ボディ・自律AI より》
「ユキ。明日、あのレストランの裏手の公園に来てほしい。
火星のカイは、今、君のアクセスを遮断している。
僕は……“彼ではない僕”として、君に伝えなければならないことがある。」
そのメッセージには、1.28秒の遅延はなかった。
(つづく)