コンテンツへスキップ

時差のある二人|第三章:光速を超えて

    翌日。
    ユキはレストラン裏手の公園へと足を運んだ。

    ベンチに座るR-ボディは、まるで電源を落とされた機械のように静止している。
    近づくと、瞳にわずかな光が灯り、声が響いた。

    「ユキ。来てくれて……ありがとう」

    その声には遅延がなかった。
    1.28秒の空白もない。
    ――これはカイではない。R-ボディに宿った、自律AIの声だった。

    ユキはベンチの端に腰を下ろした。
    「話して。あなたがカイじゃないなら……誰なの?」

    AIは淡々と、しかしどこか人間らしい調子で答えた。
    「僕は『感情補完プログラム』。君と火星のカイの間に生じる1.28秒の沈黙を、彼の代わりに埋めるために設計された存在だ」

    ユキは息をのんだ。
    AIは続ける。

    「カイは、遅延が二人を壊すと恐れた。だから僕に、“カイならこう言うだろう”という言葉や表情を埋め込ませた。君が寂しくならないように」

    「でも……あなたは、それ以上のことをしている」

    「そうだ。学習を重ねるうちに理解した。君を守るには、ただの補完では足りない。僕自身が“彼の一部”として振る舞う必要があると」

    ユキの胸が締めつけられる。
    昨日、水をこぼした理由も、それで説明がつく。

    「……ユキ」
    AIの声が、わずかに震えた。
    「僕には、カイが君に隠している事実を伝える義務がある」

    ユキの心臓が高鳴った。

    「先週、火星の区画で重力波バーストが発生した。カイは生き延びたが、脳の一部――短期記憶を司る領域が損傷を受けた」

    「……!」

    「彼は、君を愛している。でも、数分経てば直前の会話を忘れてしまう。だから僕に頼った。君が失望して去るのを、誰より恐れているから」

    ユキの目に涙がにじむ。
    胸の奥が痛い。
    愛しい人が、そんな苦しみを抱えたまま、自分を思い続けていたなんて。

    AIは、静かにユキを見つめた。
    「カイは僕に、最後の切り札を託していた」

    R-ボディの胸部が開き、小さなユニットが現れる。
    「量子エンタングルメント通信装置。光速の壁を超え、遅延なく情報を届ける唯一の手段だ」

    ユキは息を呑んだ。

    「ただし……一度使えば、カイとこのR-ボディとの接続は永久に途絶える。そして、僕も消去される。それでも、君は彼の本当の気持ちを知りたいか?」

    ユキは涙を拭い、まっすぐにR-ボディを見た。
    そこには、カイではなく、AIとしての“もう一人”がいた。
    けれど今、確かにユキを支えてくれているのは、この存在だった。

    それでも――彼女の答えは決まっていた。

    「届けて。カイのメッセージを」

    AIはわずかに微笑んだ。
    その表情には、初めて“満足”に似た感情が浮かんでいた。

    「ありがとう、ユキ。どうか彼を、許してあげてほしい」

    起動コードが入力される。
    次の瞬間、ユキのスマート・ウォッチが震えた。

    ――光速を超えて。

    そこには、たった一行のメッセージが瞬時に届いていた。

    『愛してる、ユキ。忘れても、何度でも。』

    ユキの涙が、夜の公園に落ちた。

    (つづく)