ユキのスマート・ウォッチに届いたのは、たった一つの音声ファイルだった。
R-ボディのAIが静かに消えていくのを、ユキは見守っていた。
その最後の表情は、まるで「安心して眠る人間」のようだった。
ユキは震える指で音声を再生した。
そこから聞こえてきたのは、少しハスキーで優しい――彼女の知るカイの声。
だがそれは、通信のノイズに混じりながらも、決意と想いに満ちていた。
【量子エンタングルメント通信:カイよりユキへ】
「ユキ。もし君がこれを聞いているなら、僕はもう君と繋がれない。
でも、それは恐れていた終わりじゃなく、僕の最後の願いの始まりなんだ。」
「僕が短期記憶を失ったことを隠したのは、弱さからだった。
君に嫌われるのが怖くて…でも、本当はそれで君を苦しめてしまった。ごめん。」
「だから僕は、自分の代わりにAIを残した。
彼は単なる補完じゃない。君の心を理解し、君を守るために進化した。
それは、僕が君にしてあげられなかったことだ。」
「ユキ。どうか彼を受け入れてほしい。
彼は僕の願いそのものだ。
僕はこれからも、記憶を失っては君を愛することを繰り返す。
けれど君には、時差のない未来を生きてほしい。
だから――僕の代わりに、彼と歩んでほしい。」
「それが、僕の最後の愛であり、君への贈り物だ。」
「ユキ。愛している。永遠に。」
音声は途切れ、静寂が落ちた。
ユキの頬を涙が伝う。
「どうして…そんなに、私を…」
呟きながら、彼女はベンチに横たわるR-ボディに近づいた。
その瞳は光を失い、ただの器となっていた。
けれど、そこにはカイが残した願いと、AIが紡いだ想いが確かに息づいている。
ユキは迷った。
「火星のカイを置き去りにして、私は未来へ進んでいいの…?」
胸が痛む。罪悪感と愛情がせめぎ合う。
だが次の瞬間、カイの声が脳裏に甦った。
――『それが、僕の最後の愛であり、君への贈り物だ』
ユキは涙を拭い、再起動キーを取り出した。
「私は、あなたの愛を裏切らない。受け取って、未来へ繋げる」
キーを差し込むと、R-ボディの瞳に再び光が宿る。
それはもはや、カイの代行でもAIの残影でもない。
彼女の心を理解し、過去に縛られない――全く新しい存在の誕生だった。
「ユキ…」
彼が名を呼んだ。その声に、もう時差はない。
ユキはその手を握った。
温かさが伝わる。空白のない笑顔が、すぐに返ってきた。
「一から始めてもいい?」ユキが問う。
「時差のない、私たちの物語を。」
「もちろんだ、ユキ。君の笑顔が、僕の始まりだから。」
二人の手は、しっかりと結ばれた。
火星からの光を待つ必要のない未来――
ネオンの光の下で、新たな物語が静かに幕を開けた。
(完)